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唐揚げ弁当を買った客が店を出ていくのを見送った後、靖子は時計を見た。あと数分で午後六時になるところだった。吐息をつき、白い帽子を脱いだ。
工藤から、仕事の後で会おうといわれていた。昼間、携帯電話にかかってきたのだ。
お祝いだ、と彼はいった。その口調は弾んでいた。
何のお祝いかと問うと、「決まってるじゃないか」と彼は答えた。
「例の犯人が捕まったことのお祝いだよ。これで君も事件から解放される。僕も余計な気を遣わなくて済むようになった。刑事にまとわりつかれる心配もないわけだし、乾杯のひとつもしたいと思ってさ」
工藤の声は、ひどく軽々しく、能天気に聞こえた。事件の背景を知らないのだから当然のことなのだが、靖子としては彼に合わせる気になれなかった。
そんな気にはなれない、と彼女はいった。
どうして、と工藤は尋ねてきた。靖子が黙っていると、ああそうか、と彼なりに何かに気づいたようにいった。
「別れたとはいえ、被害者と君とは浅からぬ縁があったんだったね。たしかに、お祝いというのは不謹慎だった。謝るよ」
全く的はずれだったが、靖子は黙っていた。すると彼はいった。
「それとは別に、重要な話があるんだ。今夜、ぜひ会ってほしい。いいね?」
断ろうかと思った。そういう気分ではなかった。自分の代わりに自首してくれた石神に対し、あまりにも申し訳ないと思った。しかし断りの言葉が出なかった。工藤の重要な話とは何だろう。
結局、六時半頃に迎えに来てもらうことになった。工藤は美里にも同席してもらいたい口振りだったが、それはやんわりと断った。今の美里を工藤に会わせるわけにはいかない。靖子は家の留守番電話に、今夜は少し遅くなるということを吹き込んでおいた。それを聞いた美里がどんなふうに思うかを想像すると、気が重かった。
六時になると靖子はエプロンを外した。奥にいる小代子に声をかけた。
「あら、こんな時間」早めの夕食をとっていた小代子は、時計を見た。「お疲れ様。後のことはいいわよ」
「じゃあこれで」靖子はエプロンを畳んだ。
「工藤さんと会うんでしょ?」小代子が小声で訊いてきた。
「えっ?」
「昼間、電話がかかってきたみたいじゃない。あれ、デートの誘いでしょ」
靖子が困惑して黙っていると、どう誤解したのか、「よかったわねえ」と小代子はしみじみとした口調でいった。「おかしな事件も片づいたようだし、工藤さんみたいないい人と交際できるし、やっとあなたにも運が巡ってきたんじゃないの?」
「そうかな……」
「そうよ、きっと。いろいろと苦労したんだし、これからは幸せにならないと。美里ちゃんのためにもね」
小代子の言葉は、様々な意味で靖子の胸にしみた。彼女は心の底から友人の幸せを望んでくれている。その友人が人殺しをしたことなど、微塵も考えていないのだ。
また明日、といって靖子は厨房を出た。小代子の顔を正視できなかった。『べんてん亭』を出て、いつもの帰り道とは反対の方向に歩きだした。角のファミリーレストランが工藤との待ち合わせ場所だった。本当はその店にはしたくなかった。富樫と待ち合わせをしたのもそこだったからだ。だが工藤が、一番わかりやすいからといって指定してきたので、場所を変えてくれとはいいにくかった。
頭上を首都高速道路が走っている。その下をくぐった時、花岡さん、と後ろから声をかけられた。男の声だった。
立ち止まって振り返ると、見覚えのある二人の男が近づいてくるところだった。一方は湯川という男で、石神の古い友人だといっていた。もう一人は刑事の草薙だ。なぜこの二人が一緒なのか、靖子にはわからなかった。
「僕のこと、覚えておられますよね」湯川が訊いてきた。
靖子は二人の顔を交互に見つめながら頷いた。
「これから何かご予定が?」
「ええ、あの……」彼女は時計を見るしぐさをしていた。だがじつは動揺し、時刻などは見ていなかった。「ちょっと人と約束が」
「そうですか。三十分だけでも話を聞いていただきたいのですが。大事な話なんです」
「いえ、それは……」首を振った。
「十五分ならどうですか。十分でも結構です。そこのベンチで」そういって湯川はそばの小さな公園を指差した。高速道路の下のスペースが、公園に利用されているのだ。
口調は穏やかだが、その態度には有無をいわせぬ真剣さが漂っていた。何か重要なことを話すつもりなのだと靖子は直感した。この大学の助教授だという男は、以前会った時にも、軽口を叩くような調子で、じつは大きな圧力を彼女にかけてきた。
逃げだしたい、というのが本音だった。しかし、どんな話をするつもりなのかも気になった。その内容は石神のことに違いなかった。
「じゃあ、十分だけ」
「よかった」湯川はにっこりと微笑み、率先して公園に入っていった。
靖子が躊躇っていると、「どうぞ」と草薙が促すように手を伸ばした。彼女は頷き、湯川に続いた。この刑事が黙っているのも不気味だった。
二人掛けのベンチに湯川は腰を下ろしていた。靖子が座る場所は空けてくれている。
「君はそこにいてくれ」湯川が草薙にいった。「二人だけで話をするから」
草薙は少し不満そうな顔をしたが、顎を一度突き出すと、公園の入り口付近まで戻り、煙草を取り出した。
靖子は草薙のほうを少し気にしながら湯川の隣に座った。
「あの方、刑事さんでしょう? いいんですか」
「構いませんよ。本来僕が一人で来るつもりだったのです。それに彼は、僕にとっては刑事である以前に友人です」
「友人?」
「大学時代の仲間です」そういって湯川は白い歯を覗かせた。「だから石神とも同窓生ということになる。もっとも彼等二人は、今度のことがあるまで一面識もなかったらしいですが」
そういうことだったのかと靖子は合点した。なぜこの助教授が事件を機に石神に会いに来たのか、今ひとつよくわからなかったのだ。
石神は何も教えてくれなかったが、彼の計画が破綻したのは、この湯川という人物が絡んできたからではないかと靖子は考えていた。刑事が同じ大学の出身で、しかも共通の友人を持っていたことなど、彼の計算外のことだったのだろう。
それにしてもこの男は、一体何を話すつもりなのか――。
「石神の自首は誠に残念です」湯川がいきなり核心に触れてきた。「あれほどの才能を持った男が、今後刑務所の中でしかあの頭脳を使えないのかと思うと、研究者としてじつに悔しいです。無念です」
靖子はそれに対しては何も答えず、膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「だけど、僕にはどうしても信じられないんです。彼があんなことをしていたというのがね。あなたに対して」
湯川が自分のほうを向くのを靖子は感じた。身体を固くした。
「あなたに対して、あのような卑劣なことをしていたとは、とても考えられない。いや、信じられないという表現は適切ではないな。もっと強い確信を持っています。信じていない、というベきでしょう。彼は……石神は嘘をついています。なぜ嘘をつくのか。殺人犯の汚名を着るのだから、今さら嘘なんかついたって何の意味もないはずだ。だけど彼は嘘をついている。その理由はひとつしか考えられない。その嘘は自分のためについたものではないのです。誰かのために、真実を隠しているんです」
靖子は唾を飲み込んだ。懸命に息を整えようとした。
この男は真相に薄々気づいているのだと思った。石神は誰かを庇っているだけで、真犯人は別にいる、と。だから石神を何とか救おうとしているのだ。そのためにはどうすればいいか。その早道は、真犯人に自首させることだ。すべてを洗いざらい白状させることだ。
靖子はおそるおそる湯川の方を窺った。意外なことに彼は笑っていた。
「あなたは、僕があなたを説得しに来たのだと思っておられるようですね」
「いえ、別に……」靖子はかぶりを振った。「それに、あたしを説得って、一体何を説得するんですか」
「そうでした。変なことをいってしまいましたね。謝ります」彼は頭を下げた。「ただ僕は、あなたに知っておいてもらいたいことがあったのです。それで、こうしてやってきたわけです」
「どういうことでしょうか」
「それは」湯川は少し間を置いてからいった。
「あなたは真実を何も知らない、ということです」
靖子は驚いて目を見張った。湯川はもう笑っていなかった。
「あなたのアリバイは、おそらく本物でしょう」彼は続けた。「実際に映画館に行ったはずです。あなたもあなたのお嬢さんもね。でなければ、刑事たちの執拗な追及に、あなたはともかく中学生のお嬢さんが耐えられるはずがない。あなた方は嘘をついていないのです」
「ええ、そうです。あたしたちは嘘なんかついていません。それがどうかしたんですか」
「でもあなたは不思議に思っているはずだ。なぜ嘘をつかなくていいのか、とね。なぜ警察の追及がこれほど緩いものなのか、とね。彼は……石神は、あなた方が刑事の質問に対して、本当のことだけをいっておけばいいように仕組んだのです。どんなに警察が捜査を押し進めても、あなたへの決定打にはならないように手を打ったんです。その仕掛けがどういったものなのか、おそらくあなたは知らない。石神が何かうまいトリックを使ってくれたようだと思っているだけで、その内容については知らない。違いますか」
「何をおっしゃってるのか、あたしにはさっぱりわからないんですけど」靖子は笑ってみせた。だがその頬が引きつっているのは自分でもわかった。
「彼はあなた方を守るために、大きな犠牲を払ったのです。僕やあなたのようなふつうの人間には想像もできない、とてつもない犠牲です。彼はたぶん事件が起きた直後から、最悪の場合には、あなた方の身代わりになることを覚悟していたのでしょう。すべてのプランはそれを前提に作られたのです。逆にいうと、その前提だけは絶対に崩してはならなかった。しかしその前提はあまりにも過酷です。誰だってくじけそうになる。そのことは石神もわかっていた。だから、いざという時に後戻りが出来ないよう、自らの退路を断っておいたのです。それが同時に、今回の驚くべきトリックでもありました」
湯川の話に、靖子は混乱し始めていた。何のことをいっているのか、まるで理解できなかったからだ。そのくせ、何かとてつもない衝撃の予感があった。
たしかにこの男のいうとおりだった。石神がどんな仕掛けを施したのか、靖子は全く知らなかった。同時に、なぜ自分に対する刑事たちの攻撃が思ったよりも激しくないのか、不思議だった。じつのところ彼女は、刑事たちの再三にわたる尋問を、的はずれとさえ感じていたのだ。
その秘密を湯川は知っている――。
彼は時計を見た。残り時間を気にしているのかもしれなかった。
「このことをあなたに教えるのは、じつに心苦しい」彼は実際、苦痛そうに顔を歪めていった。
「石神がそのことを、絶対に望んでいないからです。何があっても、あなたにだけは真実を知られたくないと思っているでしょう。それは彼のためじゃない。あなたのためです。もし真相を知ったら、あなたは今以上の苦しみを背負って生きていくことになる。それでも僕はあなたに打ち明けずにはいられない。彼がどれほどあなたを愛し、人生のすべてを賭けたのかを伝えなければ、あまりにも彼が報われないと思うからです。彼の本意ではないだろうけど、あなたが何も知らないままだというのは、僕には耐えられない」
靖子は激しい動揺を覚えていた。息苦しくなり、今にも気を失いそうだった。湯川が何をいいだすのか、見当もつかなかった。だが彼の口調からも、それが想像を絶するものであることは察せられた。
「どういうことなんですか。いいたいことがあるなら、早くおっしゃってください」言葉は強いが、その声は弱々しく震えていた。
「あの事件……旧江戸川での殺人事件の真犯人は」
湯川は大きく深呼吸した。
「彼なんです。石神なんです。あなたでも、あなたのお嬢さんでもない。石神が殺したんです。彼は無実の罪で自首したわけではない。彼こそが真犯人だったんです」
その言葉の意味がわからず、呆然としている靖子に、ただし、と湯川は付け加えた。
「ただし、あの死体は富樫慎二ではない。あなたの元の旦那さんではないんです。そう見せかけた、全くの他人なんです」
靖子は眉をひそめた。まだ湯川のいっていることが理解できなかったからだ。だが眼鏡の向こうで悲しげにまばたきする彼の目を見つめた時、不意にすべてがわかった。彼女は大きく息を吸い込み、口元に手をやっていた。驚きのあまり、声をあげそうになった。全身の血が騒ぎ、次にはその血が一斉にひいた。
「僕のいっている意味が、ようやくわかったようですね」湯川はいった。「そうなんです。石神はあなたを守るため、もう一つ別の殺人を起こしたのです。それが三月十日のことだった。本物の富樫慎二が殺された翌日のことです」
靖子は眩暈《めまい》を起こしそうだった。座っているのでさえ辛くなった。手足が冷たくなり、全身に鳥肌が立った。
花岡靖子の様子を見て、どうやら湯川から真実を聞かされたらしいな、と草薙は察した。彼女の顔が青ざめているのが、遠目にも明らかだった。無理もない、と草薙は思った。あの話を聞いて、驚かない人間などいない。ましてや彼女は当事者なのだ。
草薙でさえ、今もまだ完全に信じているわけではなかった。先程、湯川から初めて聞かされた時には、まさかと思った。あの局面で彼が冗談をいうはずはなかったが、それはあまりにも非現実的な話だった。
そんなことありえない、と草薙はいった。花岡靖子の殺人を隠蔽するために、もう一つ別の殺人を行う? そんな馬鹿なことがあるはずがない。だとしたら、一体どこの誰が殺されたというのだ。
その質問をすると、湯川はじっに悲しげな表情を見せて、頭を振った。
「誰なのか、名前はわからない。でも、どこにいた人間かはわかっている」
「どういう意味だ、それ」
「この世には、たとえ突然行方をくらましても、誰にも探してもらえず、誰からも心配してもらえない人間というのがいるんだよ。おそらく捜索願も出されていないだろう。その人物は、おそらく家族とも断絶して暮らしていただろうから」そういって湯川は今まで歩いてきた堤防沿いの道を指した。「君もさっき見ただろ? そんな人たちを」
すぐには湯川のいっている意味がわからなかった。だが指差された方向を見ているうちに、閃くものがあった。草薙は息を呑んだ。
「あそこにいたホームレスか?」
湯川は頷かなかったが、こんな話をした。
「空き缶を集めている人がいたのに気づいたかい? 彼はあのあたりに住処を持つホームレスのことなら何でも把握している。彼に尋ねてみたところ、一か月ぐらい前に、一人の仲間が加わった。仲間といっても、ただ同じ場所にいるというだけのことだ。その人物はまだ小屋を作っておらず、段ボールをベッドにすることにも抵抗を感じている様子だった。最初は誰でもそうだ、と空き缶集めのおじさんは教えてくれた。人間というのは、なかなかプライドを捨てられないらしいね。でも時間の問題だとおじさんはいっていた。ところがその人物は、ある日突然消えた。何の前触れもなかった。どうしたんだろう、とおじさんは少し気にかかったけれど、それだけだ。ほかのホームレスたちも、気づいていたはずだけれど、誰もそんな話はしない。彼等の世界では、ある日急に誰かがいなくなったりするのは日常茶飯事なんだ」
ちなみに、と湯川は続けた。
「その人物が姿を見せなくなったのは三月十日前後らしい。年齢は五十歳ぐらい。やや中年太りした、平均的な体格の男だったという」
旧江戸川で死体が見つかったのは三月十一日だ。
「どういう経緯があったのかはわからないが、石神は花岡靖子の犯行を知り、その隠蔽に力を貸すことにしたのだろう。彼は、死体を処分するだけではだめだと考えた。死体の身元が割れれば、警察は必ず彼女のところへ行く。そうなると彼女や彼女の娘が、いつまでもしらを切り続けられるかどうかは怪しいからだ。そこで立てた計画が、もう一つ別の他殺体を用意し、それを富樫慎二だと警察に思い込ませるというものだった。警察は被害者がいつどこでどのように殺されたかを次第に明らかにしていくだろう。ところが捜査が進めば進むほど、花岡靖子への容疑は弱まっていく。当然だ。その死体は彼女が殺したものではないからだ。その事件は富樫慎二殺しではないからだ。君たち警察は、全く別の殺人事件の捜査をしていたというわけさ」
湯川が淡々と語る内容は、とても現実のことだとは思えなかった。草薙は話を聞きながらも首を振り続けていた。
「そんなとんでもない計画を思いついたのも、石神がふだんあの堤防を通っていたからだろう。あのホームレスたちを毎日眺めながら、彼はたぶんこんなふうに考えていたんじゃないだろうか。彼等は一体何のために生きているのだろう、このままずっとただ死ぬ日を待っているだけなのか、彼等が死んだとしても誰も気づかず、誰も悲しまないのではないか――まあ、僕の想像だがね」
「だから殺してもいい、と石神は考えたというのか」草薙は確認した。
「殺してもいいとは考えなかっただろう。でも、石神が計画を考案した背景に彼等の存在があったことは否めないと思う。以前、君にいったことがあったはずだ。論理的でありさえすれば、どんな冷酷なことでも出来る男なんだ、とね」
「人殺しが論理的か」
「彼が欲しかったのは他殺体というピースだ。パズルを完成させるには、そのピースが不可欠だった」
到底理解できる話ではなかった。そんなことを大学の講義でもするような口調で話す湯川のことも、草薙には異常に思えた。
「花岡靖子が富樫慎二を殺した翌日の朝、石神は一人のホームレスに接触した。どんなやりとりがあったのかはわからないが、アルバイトを持ちかけたのは確実だ。バイトの内容は、まず富樫慎二の借りていたレンタルルームに行き、夜まで時間を潰すこと。その部屋は石神の手によって、夜中のうちに富樫慎二の痕跡は消されていたはずだ。部屋に残るのは、その男の指紋や毛髪だけだ。夜になると彼は石神から与えられた服を着て、指示された場所に行った」
「篠崎駅か」
草薙の問いに、湯川は首を振った。
「違う。おそらく、その一つ手前の瑞江駅だ」
「瑞江駅?」
「石神は篠崎駅で自転車を盗み、瑞江駅でその男と落ち合ったのだと思う。その際石神は、もう一台自転車を用意していた可能性が高い。二人で旧江戸川の堤防まで移動した後、石神は相手の男を殺害した。顔を潰したのは、もちろん富樫慎二でないことを隠すためだ。しかしじつは指紋を焼く必要はなかった。レンタルルームには殺された男の指紋が残っているはずだから、そのままでも警察が死体の身元を富樫慎二と誤認しただろうからね。だけど顔を潰す以上、指紋も消しておかないと犯人の行動として一貫性がない。そこでやむをえず指紋を焼いたんだ。ところがそうなると、警察が身元の確認に手間取るおそれがある。だから自転車のほうに指紋を残したんだ。衣類を中途半端に燃え残したのも同様の理由からだ」
「しかしそれなら自転車が新品である必要はないんじゃないか」
「新品同様の自転車を盗んだのは、万一のことを考えたからだ」
「万一のこと?」
「石神にとって重要なことは、警察が犯行時刻を正確に割り出してくれることだった。結果的に解剖によって比較的正確に推定できたようだが、死体の発見が遅れるなどして、犯行時刻に幅をもたせられることを最も恐れたんだ。極端な場合、前日の夜、つまり九日の夜まで広げられたら彼等にとって極めてまずいことになる。その夜は実際に花岡母娘が富樫を殺した日だから、彼女たちにアリバイはない。それを防ぐため、少なくとも自転車が盗まれたのは十日以後だという証拠がほしかった。そこであの自転車だ。丸一日以上放置されているおそれの少ない自転車、盗まれた場合に持ち主が盗難日を把握していそうな自転車、となると新品同様の自転車ということになる」
「あの自転車にはいろいろな意味があったということか」草薙は自分の額を拳で叩いた。
「発見された時、両輪がパンクさせられていたという話だったね。それも石神らしい配慮だ。おそらく、誰かに乗り逃げされるのを防ぐためだろう。彼は花岡母娘のアリバイを生かすために細心の注意を払ったんだよ」
「だけど彼女たちのアリバイはそれほど確実なものではなかったぞ。映画館にいたという決定的な証拠は、今も見つかっていない」
「だけど、いなかった、という証拠も君たちは見つけられずにいるだろ?」湯川は草薙を指差した。「崩せそうで崩れないアリバイ。これこそが石神が仕掛けた罠だった。もし鉄壁のアリバイを用意していたなら、警察は何らかのトリックが使われた可能性を疑う。その過程で、もしかしたら被害者が富樫慎二ではないのではないか、という発想が出てくるかもしれない。石神はそれを恐れた。殺されたのは富樫慎二、怪しいのは花岡靖子、そういう構図を作り上げ、警察がその固定観念から離れられないようにしたんだ」
草薙は唸った。湯川のいうとおりだった。死体の身元が富樫慎二らしいと判明した後、すぐに花岡靖子に疑いの目を向けた。彼女の主張するアリバイに、中途半端な点があったからだ。警察は彼女を疑い続けた。だが彼女を疑うということは、即ち、死体が富樫であることを疑わない、ということになる。
恐ろしい男だ、と草薙は呟いた。同感だよ、と湯川もいった。
「僕がこの恐るべきトリックに気づいたのには、君の話がヒントになっている」
「俺の?」
「石神が数学の試験問題を作る時のセオリーというのがあっただろ。思い込みによる盲点をつく、という話だ。幾何の問題に見せかけて、じつは関数の問題、というやつだ」
「あれがどうかしたのか」
「同じパターンなんだよ。アリバイトリックに見せかけて、じつは死体の身元を隠すという部分にトリックが仕掛けられていた」
あっと草薙は声を漏らした。
「あの後、君に石神の勤怠表を見せてもらったことを覚えているかい。あれによると、彼は三月十日の午前中、学校を休んでいた。事件とは関係がないと思って、君は重視していなかったようだが、あれを見て僕は気づいたんだ。石神が隠したい最も大きな出来事は、その前夜に起きたのだとね」
隠したい最も大きな出来事――それが花岡靖子による富樫慎二殺しというわけだ。
湯川の話は何から何まで辻褄が合っていた。考えてみれば彼がこだわった自転車盗難や衣類の燃え残りは、すべて事件の真相に大きく関わっていたのだ。自分たち警察は石神の仕掛けた迷路にとらわれていた、と草薙は認めざるをえなかった。
だが、非現実的、という印象は変わらなかった。一つの殺人を隠すためにもう一つ別の殺人を行う――そんなことを考える人間がいるだろうか。誰も考えないからこそトリックなのだといわれればそれまでだが。
「このトリックには、もう一つ大きな意味がある」湯川は草薙の心情を見抜いたようにいった。
「それは、万一真相が見破られそうになったら自らが身代わりになって自首する、という石神の決意を揺るぎのないものにするということだ。単に身代わりになるだけなら、いざとなれば決心がぐらつく恐れがある。刑事の執拗な尋問に耐えかねて、真実を吐露することもありうる。だけど、今の彼にはそんな不安定さはないだろう。誰にどう攻められても、彼の決意が揺らぐことはない。自分が殺したのだと主張し続けるだろう。当然だ。旧江戸川で見つかった被害者を殺したのは、彼に間違いないのだからね。彼は殺人犯であり、刑務所に入れられて当然のことをしたんだ。その代わりに彼は完璧に守れる。心から愛した人のことをね」
「石神はトリックが見破られそうだと悟ったのか」
「僕が彼に告げたんだよ。トリックを見破ったと。もちろん、彼にだけわかる言い方をした。さっき君にもいった台詞だ。この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ。歯車が何を指しているのかは、今の君ならわかるだろ?」
「石神にパズルのピースとして使われた、名無しの権兵衛さん……か」
「彼のしたことは許されることじゃない。自首して当然だ。僕が歯車の話をしたのも、それを促すためだった。だけどああいう形で自首するとは思わなかった。自分をストーカーに貶《おとし》めてまで彼女を庇うとは……。トリックのもう一つの意味に気づいたのは、そのことを知った時だった」
「富樫慎二の死体はどこにある?」
「それはわからない。石神が処分したんだろう。すでにどこかの県警で発見されているかもしれないし、まだ見つかっていないかもしれない」
「県警? うちの管内ではないということか」
「警視庁管内は避けるはずだ。富樫慎二殺害事件と関連づけられたくないだろうから」
「だから図書館で新聞を調べていたのか。身元不明死体が見つかっていないかどうか、確認したんだな」
「僕が調べたかぎりでは、該当する死体は見つかっていないようだ。でもいずれ見つかるだろう。そんな凝《こ》った隠し方はしていないはずだ。仮に見つかったところで、その死体が富樫慎二だと判断される心配はないからね」
早速調べてみよう、と草薙はいった。すると湯川は首を振った。それは困る、約束が違う、というのだった。
「最初にいっただろう。僕は友人としての君に話したわけで、刑事に話したんじゃない。この話に基づいて君が捜査を行うというのなら、今後、友人関係は解消させてもらう」
湯川の目は真剣だった。反論できる気配すら感じさせなかった。
「僕は、彼女に賭けてみようと思う」湯川はそういって『べんてん亭』を指した。「彼女はたぶん真実を知らない。石神がどれだけの犠牲を払ったかを知らない。それを話してみようと思う。そのうえで彼女の判断を待ちたい。石神は、彼女が何も知らないで、幸せを掴んでくれることを望んでいるだろう。だけど、そんなことは僕には耐えられない。彼女は知っておくべきだと思う」
「話を聞けば、彼女は自首するというのか」
「わからない。僕自身、彼女は自首すべきだと強く思っているわけじゃない。石神のことを思うと、せめて彼女だけでも救ってやりたいような気もする」
「もしいつまで経っても花岡靖子が自首してこないのなら、俺は捜査を始めるしかない。たとえおまえとの友人関係を壊してでも」
「そうだろうな」湯川は頷いた。
花岡靖子に話している友人を眺めながら、草薙はたて続けに煙草を吸った。靖子は項垂れたままで、先程から殆ど姿勢を変えていない。湯川も唇が動いているだけで、表情に変化はなかった。だが二人を囲む空気の緊張感は、草薙のところまで伝わってきた。
湯川が立ち上がった。靖子に向かって一礼した後、草薙のいるほうに歩きだした。靖子はまだ同じ姿勢だった。動けないように見えた。
「待たせたな」湯川はいった。
「話は済んだのか」
「うん、済んだ」
「彼女はどうすると?」
「さあね。僕は話しただけだ。どうするのか訊かなかったし、どうすべきだと進言することもなかった。すべては彼女が決めることだ」
「さっきもいったことだが、もし彼女が自首しなければ――」
「わかっている」湯川は制するように手を出し、歩き始めた。「それ以上いわなくていい。それより君に頼みたいことがある」
「石神に会いたいんだろ」
草薙がいうと、湯川は目を少し大きくした。
「よくわかったな」
「わかるさ。何年付き合ってると思ってる」
「以心伝心かい。まあ、今のところはまだ友人だからな」そういうと湯川は寂しそうに笑った。